2007年

ーーー9/4ーーー アート・シーン

 以前からお世話になっている工業デザイナーのA氏が、ふらりと訪ねて来られた。久しぶりのことである。コーヒーを飲みながら、いつもの通りいろいろな話を聞いた。対話というよりは、90パーセントがA氏の弁舌である。

 話題は作品をいかに宣伝するかということになった。A氏によると、キャッチーな宣伝の必要性は、ますます高くなっているとのこと。昔はコンペに入選すれば仕事が来るとか、馴染みのお客様が他の方へ紹介してくれるとか、いろいろな形で仕事の輪が広がったものだ。良い仕事さえしていれば、食い逸れることはないという時代もあった。しかし今は違うと言う。

 情報化が進んだ現代では、消費者の商品に対するアプローチは大きく変わって来ている。瞬間的に消費者の気を引くような工夫をしなければ、多くの潜在的顧客を逃すことになる。物作りをしている人は、そういう宣伝が苦手な傾向にある。しかし、時代の移り変わりに合わせなければ、仕事というものは立ち行かなくなる。当人は気が進まなくても、作家は自分の作品をキャッチーな形でアピールすることを心がける必要があると。

 たとえばホームページに載せる画像。カタログ的な写真や、型にはまった仕様の記述ではダメだという。そういうものは巷に溢れ過ぎていて、インパクトが無い。作品の全体像を伝えようとする行為が、かえってイメージを損なう結果となる。特にワンクリックでページを飛ばすパソコンの世界では、瞬間的に印象付ける画像でないと、お客は立ち止まってくれない。いきなり文章で説明しようとするのは最もダサイ。そういうことは、一旦お客の気を引いた後の、次の階層に準備しておけば良いと。

 そこでA氏の提案は「アートシーン」とのことであった。アートシーンという言葉を日本語に訳すと、「芸術方面、芸術分野」ということになる、と私は思う。ところが氏の意図は「芸術的な情景」だそうである。芸術的な印象を持った画像ということだ。そのアートシーンを宣伝メディアの中に上手にちりばめることが、消費者の気を引き、購買行動に駆り立てる鍵になるというのである。

 具体的にはどういうことか。例えば家具を緑の自然の中に置く、古い館の部屋の片隅に置く、家具の特徴的な部分をクローズアップで撮るなどの工夫をする。いずれも常套手段と言えなくもないが、ポイントはアーティスティックな印象を盛り込むということ。遊び心でも何でも良いから、作家の美的感覚や創造的個性が現れているようなものでなければならないと。

 私の作品、アームチェアCatを例に取ると、猫のように軟らかいフォルムを際立たせるために、斜め上から光を当て、床に映った影を使う。ニャアと背伸びしているような形になって、おもしろいのではないかと。

 そこで早速やってみた。11月上旬に開催される「安曇野スタイル」の個人チラシを作らなければならないので、それに使う目的も兼ねて撮影することにした。

 工房に設置されている写真撮影用の背景ロール紙を壁から床へ展開して、Catを置いた。部屋の隅の天井にライトを設置し、Catを狙う。ライトにはアルミホイルでフードを作り、光の広がりを調節した。そして陽が暮れて暗くなるのを待った。

 撮影したのが下の画像である。はたしてアートシーンになっているだろうか。


           



ーーー9/11ーーー 旧友のアドバイス

 旧友が訪ねて来た。会社勤めをしていた時の同期の友人で、その当時はいろいろハメを外して遊んだ仲の男だ。会うのは実に19年ぶりである。

 車でぐるりと安曇野を巡り、昼食をとり、青木湖の湖畔のホテルで午後のお茶を飲み、夕方になって自宅に戻った。そして工房や作品を見てもらった。

 作品に対して様々な感想をもらったが、一つ今までに無いことを言われて印象に残った。それはブックワゴンに対するコメントだった。ブックワゴンは数年前の展示会のときに作り、売れ残ったので事務所に展示品として置いてある。

 この品物はダメだと言うのである。こうはっきりとしたコメントは、なかなか聞けるものではない。品物を買ってくれるお客様はそんなことを言わないし、買わない人も、関心の無い人も含めて、ことさらそのような事を言わないものだ。

 何が悪いのかと言うと、制作に使われている技術と、品物の性格のバランスが取れていないと言うのである。簡単に言えば、精密で手間のかかる高度な技術を、日用品レベルの品物に駆使しているところが、的外れだと言うのである。

 そういう技術は、宮大工のように、はじめから高級と定まっているジャンルで使うもの。あるいは船大工のように、その技術を使わなければ強度が保てず、使う人の生命にかかわるというような大事なところに使うべきもの。量産家具店に行けば、安く買えるものがいくらでもあるようなジャンルの品物に、そのような技術を使うことは、商品としての妥当性を欠いている。そんなものは売れるはずがないと言うのである。

 実にはっきりとした言いぶんである。さすがは企業の要職まで登り詰めた男の発言だ。そういう見かたもあるのだろうと、しばし納得させられた。

 物を作る側と使う側、売る側と買う側では、大きく考えが違う場合があるということを、これまでも繰り返し経験してきた。趣味の物作りなら、そのようなことに無頓着で構わないだろうが、仕事となるとそうは行かない。自分と相手とのギャップを埋める努力は、常に行わなければならない。安易な妥協は禁物だが、独りよがりのスタイルに固執すると、生活の糧を得る仕事として成り立たなくなる。

 今回いただいたコメントは、しっかりと胸にしまっておこうと思う。

 だがしかし、私の言い分も少しはある。

 私にいろいろなことをアドバイスしてくれたお客様がいる。その方の持論は、「日常のなにげないところに本物を使うのが真の贅沢」とのことであった。その贅沢の意味するところは、他人に見せびらかすためのリッチさではなく、自分の生活を豊かに楽しくするためのリッチさだと言う。ちなみにそのお客様は、私から買った小型のウォール・キャビネットを、洗面所の歯磨きや石鹸をしまう棚として使っておられる。

 くだんのブックワゴン。そのもの自体はまだ嫁入り先が無いけれど、展示会で見た方が別サイズで注文を下さった。間口を半分にして、高さも低めにした。ソファーでくつろぐときに、コーヒーテーブルとしても使えるようにとのことであった。納入してしばらくして、その方とお会いする機会があった。とても気に入っているとの感想をいただいた。

 商品としての難しさはある。どう見ても簡単に売れる品物ではない。しかし、買って下さり、使って下さるお客様には、とても喜んでいただける。そういう物作りがあっても良いではないか。そんなふうに、少し開き直ってみたりする。



ーーー9/18ーーー 料理を作る

 このところ、自分で食事を作るようになった。今までの私の人生には無かった流れである。

 家内のパートが長時間勤務になり、帰宅が夜9時近くなる日も多くなった。仕事で疲れて帰って来て、引き続き夕食を作るのは大変な事だ。少しでも私が家事労働を負担すべきだと思う。しかし、30年近く続けて来た家庭生活のスタイルは、急には変えられない。私の中にも家内の中にも、変化を受け入れようとしない部分があった。しかしそんなことは言ってられなくなってきた。状況は次第に新しい生活スタイルへと移行し始めている。

 食事といえば、学生時代の山岳部で、カレーとシチューと野菜炒めの三種類を、日替わりのローテーションで作ったことぐらいしかない。職業柄、刃物の扱いには自信があるが、包丁を握ったことはほとんどない。

 知り合いの木工家には、料理の得意な人もいる。食べさせてもらったことは無いが、旬の食材をうまく取り入れて、料理屋で出すようなものを作る。ときどきブログにそのような記事が載る。料理の画像を見ると、いかにも美味しそうである。自営業は、本来このような生活力を身に付けているべきだという気もする。

 私が作れるのは、いまのところカレー、チャーハン、生姜焼き、味噌汁、くらいのものである。レパートリーを増やすために、料理本を買おうかと思った。東京で暮らしている娘に相談したら、それよりもサイトで調べた方が良いと言われた。なるほど、料理関連のサイトは山ほど有り、レシピはいくらでも出て来る。その中から、自分の感覚に合ったものと付き合えば良いというのが、娘のアドバイスだった。

 自分で料理を作ってみると、大して難しいことではないと感じた。考えてみればそれも当然のことだ。特定の人しかできないような事だったら、家庭料理は成立しない。しかし、作る事自体は難しくなくても、毎日の業務として行うのは、なかなか大変なことだと思う。それは木工仕事と似ているように思う。木工家具も、作る事より、生業として続けていく事の方が難しい。

 ある主婦の方にそのような話をしたら、その通りだと言われた。「家にあるものを上手く使って料理するのだから、主婦は大変なのです。男性の料理に凝っている方は、一から材料を揃え、手間を惜しまず作るわけだから、美味しくて当たり前です」と言うのである。

 料理は、基本的に自然の食材を使う。野菜にしろ肉にしろ、放っておけば鮮度が落ちるし、腐ってしまうこともある。それを見極めながら、メニューを考え、食材を使い回す。そして足りなくなりそうなものを買って補充する。冷蔵庫の中身を常に把握して、使えるものをタイミングよくレシピに組み込んで行く。季節の食材を使って変化を付ける工夫も必要だ。家族の健康状態によっては、臨時のメニューで合わせることもある。そのような全ての作業を含めたものが、家庭料理なのである。それを日々つつがなく遂行する大変さは、出て来る料理を食べるだけでは分からない。

 家内は料理が得意である。それでも「作って片付けて、作って片付けての繰り返しが嫌になる」と、ときどきこぼす。そして「たまには外で食べたい」と言う。外食をすれば、ほとんどの場合がっかりするほど、我が家の料理は美味しい。それでも家内は、料理を作る苦痛からいっとき解放される幸せを口にする。



ーーー9/25ーーー 凱旋門の怪

 あるテレビ番組に登場した芸能人が、ジョギングが好きで、旅先にもシューズを持参して走るという話をしていた。訪れた土地の雰囲気を掴むのには、ジョギングが最適だとのコメントもあった。パートから戻った家内にその話をしたら、「以前の誰かさんと同じね」と言った。私も会社員時代の一時期、ジョギングに凝っていた。海外出張にさえシューズを持参して、旅先で走ったものだった。

 出張でパリに行ったときのこと。ホテルはパリ市街の西の端にあるラ・デファンスという地区にあった。この地区は、ビジネス街として再開発されたところで、訪問先の会社のビルもそこにあった。その近くのホテルをとったのであった。

 ある日の早朝、ジョギングをした。ラ・デファンスから大通りを走って凱旋門まで行き、戻って来るコースである。この大通りは、コンコルド広場、シャンゼリゼ、凱旋門を結び、さらに一直線にラ・デファンスまで至る、パリで最も有名な通りである。ホテルから凱旋門まで、片道2キロほどの道のりだったろうか。

 夜明けのパリの街は美しい。夜通し開いていたのか、あるいは夜明け前に開店したのか、カフェには灯がともり、店内には客の姿も見えた。美しい女性が、コーヒーを飲んでいた。それを横目に見ながら走る。

 凱旋門に着いた。その大きさに圧倒された。凱旋門を中心に、ロータリーを時計回りに走った。凱旋門からは12本の道路が放射状に出ている。それらの道路を一本づつ横切る。凱旋門は横から見てもアーチになっている。それが、正面から見たようにも見える。

 ロータリーを一周して、もと来た道を戻った。ところが、景色がどうも違って見える。おかしいなと思いながらも、走り続けた。そうしたら、目の前に天を突く巨大な針のような形のオベリスクが現れた。なんとそこはコンコルド広場だった。凱旋門を一周したつもりが半周しかせず、反対側の道(シャンゼリゼ通り)を走ってしまったのだった。

 恐らく凱旋門の大きさと、放射状に展開する道路に、方向感覚が狂ったのだろう。全く予期しなかった出来事に、唖然とした。しかし、驚いている暇は無い。かなり遠くまで来てしまったので、時間が押している。あわてて引き返した。朝日に映えるシャンゼリゼを走り抜け、再び凱旋門へ。そして半周回ってもと来た道へ。

 凱旋門を回る時、いささかの緊張を覚えた。また間違えたらどうしよう。こんなことを繰り返していたら、いつまでたってもホテルへ戻れない、と。

 




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